2011年2月3日木曜日

あけましておめでとうございます。



旧正月、明けましておめでとうございます。
今日は、節分の日、そして旧暦の1月1日でもあります。

節分(せつぶん・せちぶん)とは、「季節を分ける」ことをも意味し、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことを表します。季節の変わり目にはは邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うためのの悪霊払いの行事が執り行われます。江戸時代以降は特に、一年の始まりである立春を前に、節分の行事が行われるようになったようです。

また旧正月は、二十四節気で『雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころ」とされるる雨水(2月19日頃)の直前の朔日を言います。(さく)とは、月と太陽の視黄経が等しくなること、またその時刻のことで、新月(しんげつ)と同義であります。また、朔の瞬間を含む日を朔日といい、陰暦では、月の始まる「1日」となります。「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言うため、朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。「一日」を「ついたち」と読むのもここから由来しているようです。

ということは‥すなわち、この節分と旧正月(一年の朔)とが重なる日、は、すなわち終末と再生への転換の日を同じくする日。なんとも気分がすがすがしくなります。生命の営みの終息する冬から、いよいよ再生の春へのカウントダウンがはじまった、という感じでしょうか。

ちなみに、今年の旧正月の朔は、2月3日の11時31分です♪新しい一年の始まりです。

2011年が、すべての意味で素晴らしい年となりますよう‥

皆様のご活躍を心よりご祈念申し上げます。

本年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

2011年2月2日水曜日

Heureux Saint-Valentin!



Heureux Saint-Valentin

Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction. (Antoine DE SAINT-EXUPÉRY)
「愛するというのは互いに見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見ることである。」
(サンテクジュペリ)



【 Le Marche d’Institutのご案内】

産地直送の旬のオーガニック野 菜や果物のほか、とっておきの厳選食材や雑貨が並びます。アーティストによる素敵な演奏や焼きたてのクレープを楽しみながら、1Fのル・カフェのテラスで ゆったり語らい、楽しいフランス風日曜日をマルシェで。あちこちの街角で、新鮮な野菜や果物が色とりどりに並べられ、粋でグルメな人々の日常生活の糧と なっているマルシェ(朝市)。パリ市内だけでも70以上のマルシェが開かれています。そんなフランスのマルシェさながら、学館の庭やテラスを解放して“食 からアートを!”をテーマにお洒落なマルシェを開催します。産地直送のオーガニック野菜のほか、とっておきの厳選食材や雑貨が並びます。旧正月の新春気分を味わいながら、ガーデンに響き渡るアーティストの素敵な演奏や焼きたてのクレープを楽しみ、ル・カフェのテラスでゆったり語らい、楽しいフランス風終末のひとときをマルシェでお過ごしください。皆様のお越しをお待ちしております。



【開催日時】2011年2月6日(日)10時~16時
※以降、3/6、4/10, 5/8 (毎月1回・日曜日) に開催致します

【場所】関西日仏学館 ガーデン(京都市左京区吉田泉殿町8)


主催・お問合せ:ena株式会社 担当:井原 Tel. 070-6665-0724
共催:関西日仏学館

冬の平等院鳳凰堂


先日、かねてより念願の、平等院鳳凰堂にお参りに行って参りました。


笙を持った雲中供養菩薩。ずっとお会いしたかったのです!そのほか、龍笛・篳篥・琵琶・和琴に鞨鼓や鉦鼓、香炉を持っていたり、合掌や印を結んでいたり、舞を待っていたり‥

創建当時は平等院には、鳳凰堂以外にも法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂が建ち並んでいましたが、建武3年(1336年)の楠木正成と足利の軍勢の戦火をはじめ、度重なる災害により堂塔はほとんど廃絶し、現在、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しているようです。


境内の中心となるのが国宝に指定されている鳳凰堂の大屋根には鳳凰が飾られ、また両翼と尾部を延ばした建築は鳥が羽を広げたようにも見えることから、鳳凰堂と呼ばれるようになりました。鳳凰堂建設当時は、壁の色は鮮やかなベンガラで朱色に塗られていたようです。

ちなみに、鳳は雄、凰は雌を指し、羽ある生物の王であるとされているようです。

宇治名物の茶団子をおみやげに購入。ぺろり平らげてしまいました。



平等院鳳凰堂
9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道の別荘「宇治殿」となった。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めました。 ちょうどこの年は、「釈尊の入滅から2000年目以降仏法が廃れ、天災人災が続き、世の中は乱れる」とする末法思想の元年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。当時は西方に極楽浄土が存在すると伝えられ、天喜元年(1053)、京都の最東端である宇治川の西岸に平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成しました。堂内には仏師定朝(じょうちょう)の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。その周りには、飛雲に乗り、阿弥陀如来とともに来迎する菩薩像を表わした52体の雲中供養菩薩が長押上の壁を飾り、西方極楽浄土の様子が再現されたそうです。